特別支援学校勤務で学んだこと
筆者は上司に希望を叶えていただき、知的障害の特別支援学校へ3年間「出向」しました。
そこで学んだこと・考えたことを、今更ながらまとめていきます。
1 文化の違い
「教育」と「福祉」
同じ「学校」とはいえ、福祉の考え方が取り入れられ、福祉事業所ともつながりが深い支援学校は、先生の児童・生徒との接し方に「文化の違い」が感じられました。
支援学校勤務前の筆者なら、「算数の時間に算数以外の事をするなんてありえない!」余った時間はどんどん教科書を進む!という考え方でしたが、支援学校では(普通校に戻った今もときどき…笑)「やることやったら休憩!」が当たり前。
机に伏せて寝たり、お気に入りの本を眺めたり、ボールで遊んだりトランポリンで何分も跳んだり…。とにかく好きなことをさせる時間をとり、「無理はしない、させない」が児童・生徒の心の安定につながるのです。
「教育と福祉」については過去の筆者の記事(下のリンク先)を参照してください。
「言葉」が通じない相手
1年目に勤務したのは小学部でした。発話が無いお子さんも多く、ひらがなを読めないなんて当たり前。音声・書いた文字を含め、指導で「言葉」が役に立ちません。
そこで使用するのはイラストや動画、写真、パワーポイントなどのスライド資料です。
イラストについては、ドロップレット(https://droptalk.net/symbol/)を多用していました。イラストは無料でたくさん使えます。勤務校ではアプリ(有料)も生徒用タブレットにインストールされており非常に便利に使わせてもらいました。
アプリはタップで手順や終わりを示すことができ、また、音声も出るので聴覚優位のお子さんにも役に立ちました。
制作などの活動内容の説明は動画や写真で実物を示し、児童に伝えました。
とにかく「視覚支援」で説明を尽くしていきます。
叱ること
一方、言葉による指示が分かりにくい彼らでも、表情やこちらの「気持ち」はきちんと伝わるということも確認できました。むしろ、健常者よりも敏感に感じ取っているかもしれないと思うことも。
そこで考えさせられたのは、「叱ること」についてです。
児童・生徒が悪いことをしたら叱るのは当たり前。しかし、その「悪いこと」には彼らなりの理由がある!
「理由はさておき、悪いものは悪いんだから叱らないといけない」というのが以前の私の考えでした。
しかし、その理由は本人がコントロールできることなのか、障害特性によるものなのか、環境によるものなのか、という可能性を含めてよく考えてから、「叱る」ことが大切だと学びました。
障害特性によるものなら児童生徒は自分でコントロールできませんし、環境が原因なら指導者側に課題があるからです。
また、見た目では分からないかもしれないけれど、叱られると児童生徒は落ち込みます。一回注意してみてだめなら、するっと流すことも大切です。
授業中、座っていられない児童生徒に何度も注意することは無意味。前にふらーっと出てきた児童生徒に、画面をタッチして答えを選ばせるなど、うまく「いなして」から座るように促すことで、注意する回数は大幅に減ります。
このように、本当に叱らなくてはいけない場面は非常に少ないこと、「柔らかく、温かい支援」の方法を、様々な先生たちの様子から学ばせてもらいました。
2 特別支援学校の先生たちはスペシャリスト?
支援学校の先生たちも悩んでいる
「支援学校の先生たちは特別支援のスペシャリストだから、いろいろと教えてもらおう」
という超受け身な考え方で働き始めましたが、そこで出会ったのは、
・ 目の前の児童生徒への対応に悩み、相談をし合う先生。
・ 地域の普通校に「教育相談」で出張する前に、本で調べものをし、資料をまとめるベテランの先生。
こういった人たちでした。
ものすごく豊富な経験を持つ先生たちでも、悩むんだ!という当たり前の気づきが、筆者にはとても衝撃的であり、励みにもなりました。
答えは一つじゃない、考え続けなくてはいけない!ということですから。
支援学校の先生たちにも色々な人がいる
2・3年目は高等部を担当しました。障害の程度が幅広く、限りなくグレーゾーンに近い生徒から、重度の生徒まで在籍しています。
担当する先生たちも、様々な方がいらっしゃいました。障害が重いクラスの先生は小学部のように丁寧で細やかな支援をする一方、障害が軽いクラスの先生は普通校の中学の先生のように熱く語ることもありました。もちろん、それぞれの良さがあります。
しかし残念なことに、高等部勤務が長い先生ほど、障害のある生徒の特性を踏まえず「健常者に近づけよう」としている(≒障害特性を悪く言う)ように感じられる指導・職員室での話を見聞きしました。
3 一周回って悩み始める
ところがあるとき、次のように考えました。
障害が比較的軽い生徒は企業への就労を目指しています。もしかしたら、就労先では特別な支援を受けられないかもしれません。同僚たちは、障害への理解が無いかもしれません。
そうすると、周囲の人が障害特性を受け入れることと同じくらい、「普通」(=健常者)の感覚を教える事が大切なのかもしれない・・・?
いやいや「社会モデル」で考えれば、変わるべきは社会(会社、同僚)の方ではないか。でもすぐには難しいのではないか?それなら・・・。
こうして、再び悩み始めたことをまとめると、次のようになります。
障害特性を受け入れた上での指導 vs 「だめなものはだめ」的な指導
(きめ細やかな支援 vs 世間の荒波に備える )
基本的には前者だと思っています。しかし、強度行動障害とまでいかなくとも、暴力・暴言(大声)など他人に大きな迷惑がかかるような問題行動もあります。それを「特性だから」と指導しないという選択はダメなのでは。
どっちかが正解かもしれないし、どちらも必要なのかもしれません。どちらも必要なら、ベストミックスはどう判断するのか。今も答えは出ていません。
4 今後、考えるテーマ
もう少し大きなテーマになりますが、支援学校を経験した筆者が取り組むべきことは、大きく分けると以下の4点です。
① [通常学級の担任の、支援学級児童生徒の受入れ方]
② [支援学級担任の、複数の学年の児童・生徒がいる中での授業づくり]
③ [普通校の先生たちに、どのように特別支援学校について伝えるか]
④ [障害児者と地域とのつながり]
詳細は別の記事にしようと思いますが、貴重な経験をさせていただいたことに感謝をし、私ならではの貢献をしていきたいと思います。
日本のインクルーシブ教育について
インクルーシブ教育という言葉が世に出て30年近く経ちます。
ところが、日本では「養護学校」から「特別支援学校」に名称変更は進んだものの、2022年に「分離」と国連から批判されたように、十分にインクルーシブ(包括的・包み込む)な教育が進んでいないと筆者は考えています。
今回は上の教育新聞の記事を引用しながら、筆者の考えをまとめていきます。
1 国連の障害者権利委員会勧告の要点
ここでは、勧告の教育に関わる部分のうち、下の(a)と(b)について、詳しく見ていきます。

(a)について
障害について、「医療モデル」から「社会モデル」へという考え方がまだまだ定着していないことが指摘されています。
障害を医療という外側からの「診断」で評価する「医療モデル」
(例:自立歩行できない→身体障害)
社会にこそ「障害」があり、社会や仕組みを見直せば障害を無くせるのではないか、という障害を持つ本人からの目線を大切にする「社会モデル」
(例:店の前の段差をスロープにすれば、車いすの人も自力で買い物ができる)
医療モデルから社会モデルへ。この考え方を教育・福祉の関係者だけでなく、すべての人に浸透させていくことが今後の課題です。
また、「障害のある子ども(中略)アクセスできなくしている。また、通常学校に特別支援学級があること」については、ストレートに読めば支援学級そのものを否定しているように見えますが、決してそうではありません。
「就学相談のときに保護者は特別支援学校、特別支援学級、普通学級を選ぶことができるとされているが、そのときに『普通学級に行ったら合理的な配慮を受けられないが、特別支援学級ならば合理的配慮を受けられる。普通学級を希望するなら、お母さんが付き添ってほしい』と、いろいろな条件が付くと聞く。(小国教授、教育新聞の記事より抜粋)
特別支援教育を受ける「権利」は誰にでも保障されるべきだが、障害者に特別支援教育を「強制」してはいけない(半ば強制している例がある)との指摘です。
(b)について
政府からの通知で、支援学級に在籍する児童生徒は時間の半分以上を通常学級で過ごしてはいけないことになっています。その弊害は筆者の下の記事でも述べていますのでここでは割愛します。
ずるいことを考えてみました。ある児童生徒について、本人と保護者には内緒で(あるいは説得した上で)帳簿上の在籍を特別支援学級にします。実際は通常学級ですべての授業を受けていても、支援学級の数が増えれば、学校は教員を一人多く確保できます。一人増えた教員は荒れた学級のお手伝いに行ったり、単独で別の学級の授業を担当すれば、他の教員の空き時間を確保できます。
おそらく文科省はこんな事態を想定していたのではないかと思います。しかし、この通知の問題点は、支援学級の先生による「合理的配慮」、簡単に言えばサポートを受けながら通常学級の授業にチャレンジしたい、という障害児の権利を奪っていることです。学習の場所が縛られるのは、大変な差別であり、「分離」と受け取られても仕方がありません。
2 日本の特別支援教育はそんなに「悪」なのか
上で述べた通り、日本の特別支援教育は厳しく批判されており、その内容は的を射ています。この勧告が出た当時は「日本の特別支援教育が全否定された」と思ったほどです。
しかし、日本の特別支援教育は「悪」なのかというと、そんなことはありません。日本の特別支援教育は本当に素晴らしい。筆者が特別支援学校で数年勤務した経験だけで、日本の特別支援教育を語るのはおこがましいことは重々承知していますが、断言できます。
日本人の真面目さ、「道を究める」、「プロフェッショナル」の精神から来るものなのでしょう。特別支援学校には障害児に対する教育のノウハウが蓄積されています。日々研鑽されている先生たちの努力のたまものです。
ただし、この「道を究める」という日本人の考え方は、「餅は餅屋」という、ある意味、「人任せ」な面も持ち合わせています。
3 インクルーシブ教育と専門教育は対立する概念なのか
今や、「特別支援教育」はすべての児童生徒に実施されるべきものとなっており、通常学校の教員にとっても必要な技術・知識です。
しかし、通常学校の教員はいまだに「特別支援教育は専門外」と言わんばかりに、障害のある子は支援学級(支援学校)へ、と人任せな考えになっているように思います。
障害がある児童生徒やその保護者が真の意味で学習の場を「選択できる」ようにすることが求められています。そのためには、筆者を含めた、通常学校に勤めるすべての教員の資質向上が欠かせません。
権利としてのインクルーシブも大事だが、障害のある子どもたちの専門教育を考えるのが私たち特別支援学校の教員。できれば特別支援学校で学ぶ子どもたちの実際の姿を見た上で、これからの議論をしてほしい(田村康二朗統括校長、教育新聞の記事より抜粋)
また、例え支援学級や支援学校を学習の場として選んだとしても、それは「専門教育を受ける」という選択であり、「インクルーシブ教育を選択しない」ということではありません。支援学級や支援学校が地域の通常学校から孤立せず、すべての人が行事や交流を通して多様性を学ぶ教育を目指すことが大切です。
特別支援学校に在籍しつつ、地域の学校にも籍を置き、定期的に交流できるようにした『副籍』も広がりつつある。(田村康二朗統括校長、教育新聞の記事より抜粋)
そのためには、「副籍」や「二重学籍」が幅広く行えるようにすることや、地域の学校と特別支援学校の併設、さらなる交流の促進、その実践研究が必要です。
4 地域で生きるということ
特別支援学校に通う児童生徒は、長ければ1時間近くスクールバスに乗って、通学しています。しかも、スクールバス乗り場へは車で移動しなくてはいけないほど家から離れていることが多いそうです。
この状況では、近くに住んでいる人でも、その児童生徒の障害の程度や性格、好きなもの、好きなことを知ることは非常に困難になります。名前も知らない、なんてことにもなりかねません。
特別支援学校に通っている児童生徒も、いずれは「社会人」になります。コンビニやスーパーで買い物をする人や、家の近くを散歩したり、公園で遊んだりする人もいるでしょう。 障害者であっても、社会の構成員(同じ社会で生きていく人たち)であることに変わりはありません。
障害のある人が、当たり前のように近所の人と挨拶を交わしたり、もし困っていたら自然に声を掛けてもらえたりするような、温かい地域になれば、それがまさに「インクルーシブ」であるということです。
地域の中で誰もが平等なかけがえのない存在として一緒になって社会をつくっていく。その原体験をする学校がどうあるべきなのか。地域の学校で一緒に学ぶ体験ができるというのが当たり前になるべきだ。(小国教授、教育新聞の記事より抜粋)
【教員の目線で考える】教育と福祉
筆者は支援学級を担任し、特別支援学校勤務を経て、自分の視野の狭さを感じて反省をしました。それは、「教育と福祉は緩やかにつながり、重なっている」という事実に気づいたからです。
教育と福祉の違い、教育と福祉が重なるところ、福祉の考えの教育への取り入れ方についてまとめます。
1 教育と福祉、それぞれの考え方
教育は「教える」「育つ(育てる)」という字で成り立っています。また、成長期の児童生徒を正しい方向に導くのが「指導」です。
一年の各教科の授業の流れは「教育課程」、一時間ごとの授業計画は「指導案」と呼ばれます。
つまり、教員は「教える人」「育てる人」「導く人」です。誤解を恐れずに言えば、教員は児童生徒を「動かす主体」であり、児童生徒は「受け身」の存在と言えます。
ただし、学習指導要領には「主体的・対話的で深い学び」とあります。上のような児童生徒の受け身の状態は好ましくない、自ら学ぶ姿勢を大切にしようという流れです。それでも、根底には「教える教師」「教えてもらう児童生徒」という構図があります。この構図が必要な場面もあれば、悪影響を与える場面もあります。
一方、福祉は二字ともに「しあわせ」という意味があります。一人一人の幸せのため、現状を認め、最善の環境を整えるという姿勢が根底にあります。
ただし、福祉は「人が成長する」ということを前提にしていないように思います。その意味では、支援者は基本的に「受け身」です。(私は福祉の現場で働いたことはありませんので、あくまで外野からの意見です。)
教育と福祉に優劣はなく、それぞれに良いところがあります。
2 教育と福祉が重なるところ
① 福祉サービス
支援学級や支援学校に通う生徒の多くが「放課後等デイサービス」(以下 放デイ)を利用しています。これは行政の福祉サービスです。利用するためには市町村が発行する受給者証が必要です。
もし、「新たに放デイを利用したいがどうしたらよいか」と保護者に聞かれた場合、「市役所(町村役場)の窓口へ行ってください」と伝えなければなりません。
担当の窓口は市町村によって異なります。できることなら、事前に担当の窓口の名前を調べておくとよいです。
② 日常生活の指導
知的障害の特別支援学級の場合、特別支援学校の教育課程に準じて教育課程を編成することができます。その教育課程には「日常生活の指導」も含まれます。
ところが、信じられないことに、「トイレ指導は家庭ですること」と考える教員は少なくありません。当然、家庭でも学校でも行われるべきなのに。
排泄や食事の自立は、その人のQOLを大幅に向上させます。支援学級なら、家庭を巻き込んで、トイレの指導は積極的に行うべきです。
排泄が自分でできないなら支援学校に?なんて悩んでいる保護者がいたら、私は「トイレ指導を地域の学校に求めてもOK!」と伝えます。
③ 高等部の進路指導
特別支援学校高等部の3年生とその保護者は、一般の高校生と同様に進路について考えることになります。支援学校の場合、多くは就職や就労継続支援A型・B型、生活介護の事業所へと進みます。実習(実質は採用試験)などを経て、本人に適した企業・事業所を選択します。
教員は保護者や生徒本人と相談しながら、進路指導を進めていきます。
立地や仕事(作業)内容をもとにして選ぶ生徒・保護者に対して、適性や他の利用者との相性を見定める企業・事業所。マッチングすれば無事に進路決定です。
3 福祉の考え方を教育の分野にも!
① 無理をしない、させない
教育(学校)は、基本的に1年ごとに担任が入れ替わります。そのため、教員は知らず知らずのうちに「1年で成果を出そう」という考えになりがちです。
一方、福祉の現場では支援者と利用者は何十年という長い付き合いになることもあります。そのため、「落ち着いて過ごすことが最優先、無理をしない」という考えがベースにあります。
「無理をしない」という基本的な考え方は、特別支援学校に浸透しています。しかし、筆者はそうではありませんでした。「児童生徒の成長のため」という口実で、「ギリギリまで頑張らせる」という「指導」をしてきた筆者にとって、これは目から鱗でした。
教員は、担任をしている一人ひとりが、その時々で、「負荷をかけた方が成長するとき」のか、「無理をさせずに待つとき」なのかをよくよく考えることが大切です。
特にこのセンスが試されるのは「不登校児童生徒」の対応のときです。不登校対応は「話を聞く」「待つ」が基本です。しかし、そればかりではダメな時もあります。ここぞというところで(筆者の経験では、進路を決めるための重要な場面や行事が多かったように思います。)一歩踏み込んで話すことがよいときもあるのです。
② トイレ指導
上でも述べましたが、地域の学校でも積極的にトイレ指導を行うべきです。
排泄が自分ではうまくできない児童生徒はいます。身体の障害があり尿意や便意を感じない、紙おむつに出すというこだわりがある、そもそもトイレでするという習慣が無い、など理由は様々です。
定時排泄や家庭との連携によって、トイレを使って排泄をする習慣をつけさせるのは、地域の学校の指導の範疇です。支援学級の先生で「トイレ指導は家庭で」と考えている人がいたとしたら、それは大きな間違いです。
③ 放デイの利用を積極的に呼び掛ける。
(通常学級・特別支援学級に関わらず)地域の学校に通う児童生徒の中には、障害があるにも関わらず、放デイを利用していない人がいます。そのような児童生徒の保護者には放デイの利用を呼び掛けていくとよいと思います。
保護者にとっては、障害を持つ子どもがいる他の保護者とつながり、情報を得るきっかけになることがあります。児童生徒にとっても、保護者や教員以外の支援者と関わることがプラスになることもあります。
また、高等部卒業後の進路を考えたとき、放デイと同じ系列の事業所なら知っている支援者さんがいるかもしれません。事業所側も、幼い時を知っている利用者ならぜひきて欲しい、と言ってくださる場合もあります。
時間をかけてでも、児童生徒に適した放デイを見つけて、利用していくことをお勧めします。
まとめ
教育と福祉、さらに言えば医療(医師、作業療法士、言語聴覚士など)も、ゆるやかにつながっています。ということは、福祉や医療の専門家の意見を聞くことは、教育の現場にも絶対にプラスになります。夏休み中は各学校で様々な研修が行われていると思います。教育分野に偏ることなく、様々な専門家のお話を聞くことができれば、私たちの教員としての力量も向上できるはずです。
【診断を受けることによるメリットとデメリット】ASD ADHD LDなど
今回は、「発達障害」についての基本的な内容の確認と、お医者さんにかかって診断名を出してもらうことのメリットとデメリットについてまとめます。
1 発達障害とは
発達障害とは、脳機能の発達が関係する障害です。詳しいメカニズムは分かっておらず、治療法はありません。
DSM-5(アメリカ精神医学会が発行する、『精神疾患の診断・統計マニュアル』2013年)では、発達障害は以下のように分類されます。
③ 知的障害
④ 限局性学習症(SLD) ※その他にもありますが省略
発達障害の定義は時代とともに変わります。
例えば、日本の「発達障害者支援法」には「アスペルガー症候群」「自閉症」と書かれています。しかし、2013年のDSM-5(日本語訳)では、アスペルガー症候群はなくなり、これらをまとめて「自閉スペクトラム症」と表記することになりました。
これは、発達障害は「スペクトラム(連続体)」として、様々な症状を併せ持つこと、
診断は「症状がどれほどあてはまるか」によって行われるため、「障害」よりも、状態を表す「症」が適していると考えられたからです。
※ 症状から診断する理由は、発達障害の原因(例えば、脳のどこの部分がどうなると症状が出るのか)が解明されていないためです。
この記事で長々と発達障害について述べることは趣旨からはずれますので、政府広報の下記サイトや他のwebページをご覧ください。
https://www.gov-online.go.jp/featured/201104/
(政府広報オンラインより)
発達障害の種類はさておき、上で述べた「症状から診断する」というのは、重要なポイントです。
2 診断結果は年齢とともに変わっていく
「就学前、ADHDと診断されたが、小3になったらASDと言われた。」
「LDと言われてきたが、知的障害の診断が出た。」
医師ではない筆者が軽々に述べてはいけないのかもしれませんが、実感としてADHD的な衝動性や多動性は、年齢を重ねると共に少なくなっていくことが多いと思います。
また、境界知能のお子さんが年齢を重ねて「知的障害」と診断されたり、手帳の種類が重いものに(例 療育手帳B→A)変わったりすることもありました。
診断結果が変わるのは、療育や学校教育の成果(または悪影響?)なのか、脳の発達によるものなのかは分かりませんが、症状は年齢とともに変化します。つまり、成長するにつれて診断が変わることはよくあることです。保護者や教員、支援者はこのことを頭の片隅に入れておくことが大切です。
3 診断を受けることのメリット
① 保護者や教員の「なぜ?」を解消できる。
発達障害を抱える子どもの保護者は、子育てで人一倍の苦労をしてきています。「なんでウチの子は〇〇ができない(〇〇してしまう)のだろう」と悩んできた保護者の中には、診断名がつくことで腑に落ちる(≒安心する)人もいます。
診断がつくことで、保護者の肩の力が抜けて子どもへ良い接し方ができる土台となることがあります。
② 薬の処方、医師による具体的なアドバイスをもらえる。
診断名が出て、薬が処方されることがあります。(検査前から処方されることもあります。)
薬を飲むことに拒否感が強い保護者もいますが、飲んで症状が落ち着くこともあります。
また、診断とともに、具体的なアドバイスをもらうことができます。
その子から世界はどのように見えていて、何に困っているのか、
その困難にはどんな支援が有効なのか。場合によっては保護者の通院に教員も同席させてもらい、学校での指導方法について意見を聞くこともあります。
③ 障害者手帳の交付を受けることにより、障害者雇用枠での就労を目指せる。
企業は、一定の割合の障害者を雇う義務があります。ここで言う障害者とは手帳を持つ人、つまり、行政から障害者と認定された人のことです。
身体障害者手帳・・・視覚、聴覚障害や四肢の障害などを証明する手帳。
精神障害者保健福祉手帳・・・何らかの精神疾患により、日常生活や社会生活に困難を抱える人のための手帳。筆者の経験では、発達障害があるものの知的障害は無く、しかし日常生活や社会生活に困難を抱える人に交付されていました。
手帳の交付を受けることにより、企業の障害者雇用枠に入ることを目指すことができます。おそらく多くの場合、普通に就活するよりも採用されやすいはずです。
3 診断を受けることのデメリット
① 現実を突きつけられる
この仕事をしていると、感覚が麻痺してくることがありますが、「障害」という言葉は非常に強烈なインパクトがあるので、保護者に対して使うときは、言い方やタイミングに配慮する必要があります。
しかし診断を受けるということは、この「障害」という言葉を医者からつきつけられる可能性を覚悟しなくてはいけません。障害受容ができていない保護者には、特に大変なことなのです。
② 診断名が「レッテル貼り」になる
診断名があると、指導者や保護者は指導方針を立てやすくなる半面、悪い意味で諦めてしまい、有効な指導ができなくなる恐れを否定できません。
極端な例をあげれば、ASDやADHDだからといって人を傷つけることは許されませんが、それを認めてしまうような反応を指導者がしてしまうことは、教育上悪影響となります。
また、上でも述べましたが、年齢を重ねるにつれて、診断名が変更されることがあります。レッテルを貼り、同じ指導をずっと続けていると、効果が薄れるどころか、逆効果になってしまうこともあります。
レッテルを張って本質を見失わないように注意しましょう。ケースバイケースでお医者さんのアドバイスを聞き、病名でなく「その子(人)を見る」という視点が抜けないようにしたいものです。
③ 診察(検査)までに時間がかかる・お医者さんとの相性
診断を受けるためには精神科や心療内科などを受診する必要がありますが、保護者から「予約がいっぱいでなかなか受診できない」という話はよく聞きます。診断1回目ですぐに検査、という訳にもいきませんので、検査までには何回も通わないといけません。
また、お医者さんと保護者の相性が悪い場合は、検査までに至らずに通院を止めてしまうケースもあります。
まとめ
ここまで、診断を受けることによるメリットとデメリットを述べてきましたが、筆者はメリットがデメリットを上回ると考えています。
学校側は担任や特別支援教育コーディネーター、SC,SSWなど様々な人たちで連携をとり、保護者に受診を勧めたり、服薬のメリットを伝えたりする努力を続けていくことが肝心です。
しかし、その際には保護者の障害受容の状況を見極めたり、一方的にならないように丁寧な説明をしたりするなど、学校関係者はデメリットを十分に念頭に置いて話すことを忘れてはいけません。焦らず、数年かけて伝えていくくらいでいいと思います。
この記事を書きながら、多様性を認め、すべての人が生きやすい社会をつくるため、学校の責任は重大だと改めて気づかされました。
個人的に働き方改革を実施してみた話2~日々の業務編~
ここ数年で自分なりに実践してきたを働き方改革をまとめます。
小さい物からすごく小さい物まで…いろいろありますが、ご了承ください。
1 Excelの有効活用
Excelの機能を勉強すればするほど、その奥深さと自分の「使いこなせてなさ」を痛感します。その一つが「マクロ」や「VBA」です。なんじゃそれ、という方は下のリンクを参考にしてください。
マクロはExcelでの様々な操作・処理を自動化するための機能です。VBAはマクロを設定するためのアプリ?といったところでしょうか。
学校という現場は、おそらく他の一般企業と比べて、Excelを使いこなせていない人が多いのではないでしょうか。そのため、マクロやVBAを少し知っているだけで重宝されることがあります。今まで私が作ったExcelファイルの例を挙げると
・ 特別支援学級専用の通知票印刷ファイル
学校が採用している校務支援システムでは、通常学級の通知票のみが対象で、様式が異なる支援学級はカバーされていないことが多いのです。
そこで、各教科の文章による評価、出欠席の情報、行動の記録etc を入力するシートをそれぞれ作り、印刷用のシートに出席番号を入れれば、それぞれのデータが決められたセルに入るように設定(VLOOKUPなどの数式を使用)しました。
さらに、マクロを活用し、出席番号で「1番から5番まで」などと設定し、ポチっとボタンを押せば連続印刷できる・・・。というものです。
・ 名前カード
新学期、ロッカーや靴箱などに貼るための名前カードもExcelでつくりました。
枠の色を変更できるようにするため、マクロで、オブジェクトを一括選択し→色を変えるボタンを6種類(6色)ほど設定しました。
・ 学級委員等任命状印刷ファイル
役職や学級、氏名を入力するシート(これがこのまま教務主任に提出する一覧になる)を作り、
任命状のシートに各データが飛ぶように設定(やっぱりVLOOKUPなどの数式)。
マクロで連続印刷を設定しました。
※ 私はマクロについてそれほど詳しくありません。しかし、「マクロで◯◯をしたい」と検索すれば、有能な方がVBAに書くプログラムを紹介しているサイトに行き着くので、それをコピペして使っています(危険性はゼロではありませんが。)
また、実際に行った操作を「記録」してプログラムにしてくれる機能もあります。興味のある方はぜひお試しください。(これは上記リンク先にも載っています)
2 ToDoリストの廃止
私は職員室机上のメモ帳にその日・その週・近い将来に行う予定の業務をリスト化し、終わったら線を引いたり破って捨てたりしていました。
しかしある時からこれを止めました。理由は次の通りです。
・ 記録に残らない(なんならその日の夜には何をしたか覚えていない)
・ 机の上のものを少しでも減らしたい
・ 持ち帰りで仕事をするときにToDoリストまで持ち帰りは面倒
そこで、しなければならないことはすべて手帳に書き込むことにしました。
いつやるか、いつならできるか、いつまでに終わらせるかは、書き込む場所によって視覚的に把握できます。これは業務の効率化に大きくつながっています。
そして、最大のメリットは、昨年度を振り返って業務内容を見直しできることです。
「あ、昨年度〇〇をやってたな。今年もやらなきゃ!」とか
「昨年度〇〇をしたけどあまりよくなかったな、少しやり方変えてみよう」などと考えるよいきっかけとなります。これはおススメです。
3 早く帰る日と残業する日をはっきり分ける
子どもの迎え等の事情により、毎日遅くまで仕事をする、という働き方はできなくなりました。すると意外にも、◯曜日と◯曜日は定時退勤、というルーティンができたことによるメリットをいくつも発見しました。
① 仕事の優先順位をつけ、終わらせるまでの計画を立てるようになった。
思いつくものをガムシャラに取り組む若手時代があってもいいと思います。しかし、時間的制約からそうは言っていられなくなりました。すると、下手な鉄砲も数うちゃ…ではなく、緊急性の高い業務から行ったり、そうでないものは後回しにしたりするように。後回しにして良かった、と思うことも多々あり、「早ければよいとという訳ではない」ことにも気付かされました。
② 周囲の先生たちに、「早く帰る人」と思ってもらえる
③ 突然の仕事、計画外の仕事が減った
職場には、ギリギリで業務を回している人もいて、間に合わない状況になると助けを求めたり周囲が助けに入ったりすることがあります。
それが計画的ならいいのですが、こちらの仕事を中断して行う場合は効率がダウンし計画が崩れてしまいます。
もちろん、明日は我が身ですし、これまでも助けてもらっていた自覚があります。また、その人の仕事が終わらなければ最終的に自分たちにも被害(?)がきますので、手伝うしかありません。
「ちょっとお迎えがあって…」「今日はごめんなさい…」と言って断ることで、余分な仕事が減ったのは事実。
でも、「手伝うから言ってね!」という姿勢を示すことも忘れないでいよう、と思っています。
4 業務改善の提案を忘れない
個人でいくら工夫しても、学校全体の業務量が減らなければ、私たちの残業は減りません。そこで大切になってくるのは改善の提案です。
提案するときの注意点は、
① 改善したい、というホットな気持ちを忘れないこと。
② ただの文句にならないようにすること。 の2点です。
私は、行事のすぐ後や思いついたときに、必ず手帳の決められた場所(最後の方のフリースペース)に書き留めます。年度末の反省を書くときには、なんだっけ?と忘れてしまうことが多いためです。
教育的効果が薄かったこと、非効率だったこと、困ったことなどを熱く語れば、きっと管理職の方も納得してくれる…。と信じています。
書くときには、理路整然と短く問題点を指摘し、担当者を批判しないようにします。また、ただの文句にならないよう、必ず改善案を具体的に示すようにします。
5 まとめ
相変わらず、業務が多い学校現場。個人で取り組めることには限界があります。
しかし、一つ一つ取り組んでいけば、日進月歩、学校現場はちょっとずつよくなっていくと信じています。
教員のみなさん、ともに頑張りましょう!
部活動の諸問題を一気に解決する方法
多くの中学・高校で、そして一部の小学校で、部活動の指導により教員は疲弊しています。
まずは部活動指導のメリットとデメリットを確認したうえで、部活動に関する問題の解決方法を示します。
1 部活動のメリット
部活動が長い間、全国の中学校・高校で行われてきたのは、多大なメリットがあるからです。
⑴ 運動・文化に触れる機会の確保
学校に部活動があることで、スポーツや文化活動に取り組む機会が平等に確保されます。習い事を探すのは、保護者にとって手間です。情報を集める力も個人差があります。その意味で、平等に機会があるのは素晴らしいことです。
⑵ 格安!
なんせ、指導料無しで指導してもらえるんですから。これは保護者にとってありがたいですよね。ボールなどの消耗品代とか、場所代(学校以外で行うとき)が徴収される場合はあるにせよ、基本的に部活動は無料です。
⑶ 時間効率抜群!
部活動が他の習い事に比べて最も優れているのは時間効率の良さです。部活動を他の習い事に置き換えると、移動時間や送迎の問題が発生します。学校内で行われる部活動は、移動時間がほぼゼロ。保護者の送迎だって必要ないことがほとんどです。
本来なら移動に当てなくてはいけない時間を、練習などの活動に使うことができます。これは他に代えられない大きなメリットです。
⑷ 教員が生徒を多角的に評価(理解)できる
授業や行事でパッとしない生徒が、部活動ではいきいきと活躍していたり、
好きな活動を行う中でその生徒の良さが発揮されたりすることで、教員は生徒を多角的に評価(理解)することができます。これが教員の本来の仕事である、授業や日ごろの生徒指導に生きてくるのです。
また、進路決定の際には、部活動による表彰が学校推薦の理由になったり、高校から声がかかることもあります。
2 部活動のデメリット
⑴ 教員の残業時間増加
これは詳しい説明の必要はありません。部活動の指導を教員が担当することにより、単純な時間外労働・休日出勤に加えて、様々な事務作業・生徒指導が発生します。
⑵ 専門的指導ができる人材がいないことも
基本的には、人事異動で部活動が考慮されることはありません。そのため、校内の事情により、未経験の種目を担当することになる教員が出ることは珍しくありません。
筆者はまさにこのケースです。教員生活20年の中で16年ほど部活動を担当してきましたが、自分が取り組んできたスポーツの担当になったことは一度もありません。希望してもなれなかったり、種目そのものが勤務校の部活動に無かったり。
このため、指導者がシロウトなんていう笑えない状況が多く生まれるのです。
3 部活動の諸問題を一気に解決する方法
筆者が考える解決方法はたった一つです。「教員に広く副業を認めること」
副業の「ほぼ全面解禁」が、部活動に関するすべての問題を解決するといっても過言ではない、と筆者は考えています。以下に理由を示します。
⑴ 教員は外の世界を知れ!
大学を卒業してから、就活はせず、(講師を経て)教員に。そんな教員が多いので、部活動の指導の「異常さ」に教員が気づきにくい状況が生まれます。
そしていい意味でも悪い意味でも教員は「まじめ」です。未経験の種目の部活動を担当することになれば、自費で本を買い、指導方法を勉強します。部活動の手当ては少しだけ付きますが、最低賃金以下であることがほとんどです。こうして部活動は教員の善意を搾取することにより、継続されてきたのです。
一般企業にお勤めの皆さんは残業代の「割増率」や「深夜手当」についてご存じの方が多いと思います。教員は元から残業は「ない」ことになっていますので、これらを知りません。外の世界では普通のことなのに。法律で定められているのに!
だからこそ、我々教員は「副業」をすることで、外の世界を知っていくべきです。手取りを増やしたければ、そして本人が望むなら、飲食店でアルバイトをしてもいいし、絵が得意な先生は絵画教室を、音楽の先生はピアノレッスンをしてもいいと思います。
外に出ることが異常さに気づく第一歩になります。副業で得た気づきが本業に良い影響をもたらす場合だってたくさんあると思います。
⑵ その上で、学校に部活動は「残す」
メリットは非常に大きいので、部活動は残します。教員は「副業」として、指導に当たります。「副業」となれば、少なくとも最低賃金は保障されます(できることなら、時給2500~3000円は確保したいところ)。
さらに、真に希望する人だけが指導に当たることができます。副業は「広く」認められており、他の仕事と賃金などの条件を比較することができるからです。
部活動は一年を区切りとし、指導者がいなくなった部活動は年度末に廃部とします。
従来よりも部活動に経費が掛かるため、保護者から月謝を集めます。月謝を払う保護者の指導者に対する視線は厳しくなるものと思います。そのため、保護者が「シロウト指導者」が中心の部活動を忌避したり、教員自らが未経験の種目を選ばなかったりすることから、デメリットの⑵が解決されます。
まとめ
部活動を、すべての人にとってハッピーなものに!
筆者は、部活動が無くなっていく現状を悲観的に見ています。一方で教員の過労も同じくらい悲観的かつ深刻です。
児童生徒も教員も保護者もみんなが幸せになれるように、私の意見が最善かどうかはさておき、常識にとらわれない改革を行わないといけないと思います。
正しい評価・評定とは【相対評価と絶対評価】
「相対評価に近い評価を実施している」と疑われる文書が出回ったことから、名古屋市では全中学校に調査を行うとのこと。リンク先は朝日新聞の記事です。
今回は、そもそも絶対評価・相対評価とは何か、現役教師がどのようにして評価・評定を出しているのかをまとめていきます。
1 相対評価と絶対評価
相対評価とは、事前に各評価の割合を決めて、全体の順位などを基準にして評価を決定する評価方法です。
かつては、1と5は10%、2と4は20%、3は40%などとしていました。
絶対評価は、一人ひとりを見て、到達度や意欲、努力を評価するもの…と思われています。しかし、これは正確な表現ではありません。「個人内評価」と「絶対評価」は別物です。
かばお君は90点だけど、前回も90点だったから成長していない→4
うさこ君は85点だけど、前回は45点だったからがんばった→5 とするのは絶対評価ではなく、個人内評価と言います。
絶対評価は、学習指導要領が示す目標に対して、どの程度達成しているかを評価します。このとき、集団内の順位は考慮されません。そのため、学校内の全児童生徒が十分に目標に到達していれば、全員が「5」になります。
2 評価の正当性
問題は、学習指導要領が示しているのは「目標」「内容」であり、「テスト」ではないということ。何をもって「100%」とし、「何%(何点)以上取れたら5」とは書いていないのです。
そこで、私たち教員は「このテストなら80点以上でA(評価)としよう」
「テストを改めて見ると、難易度がやや低い。80点でAは甘いのではないか。」
「50点でCは厳しい評価かもしれない」「でも40点まで下げると…」
「かばお君は、この単元ではA、次の単元〇〇ではB、その次の△△ではAだったから4にしよう(評定)」
などと複数人で相談し、決定しています。
このようにして、評価の正当性を担保し、評価の「偏り」が生まれることを防ぐため、自分たちの評価が正しいか、チェックすることはとても大切です。
「評定平均の分布を教員間で確認するのは良いが、あらかじめ決まった範囲に当てはめて評定をつけるのは適切ではない」(市教委義務教育課の杉山美津夫首席指導主事)
上記記事内の指導主事のコメントは、(たぶん)現場の経験がある方による、非常に的確な指摘です。
無作為に選ばれた人たちで構成された集団があるとして、適切なテストを実施し、正しい評価を下せば、正規分布することになります。

評定に例えると、左は適切、右は全体的に厳しめ、ということ。
つまり、評定平均や中央値を計算することによって、自分たちの評価・評定やその材料(テスト)が、適切であったかを振り返ることに利用するのはOK。
各評定の割合ありきで評定をつけるのはNGなのです。
「相対評価から絶対評価になった意図を学校現場は把握しているのか。幅広く行われていたとなれば、絶対評価を骨抜きにするもので、大問題だ。しっかりと調査したい」(広沢一郎市長)
「絶対評価を骨抜きにする」とはどういう意味なのでしょう?この市長は現場のことが分かっていないということがよく分かる発言です。
評価の正当性を維持する(=正規分布、相対評価的な考え方でチェックする)ために、評定の割合(の目安)を示す資料が作成されていたのです。
3 その評定が高校入試に使われる
しかし、絶対評価であるという前提を教員が無視していたとすれば、大変な問題です。なぜ評定平均や評定ごとの割合が先走ってしまうのか。筆者は、評定の合計点が入試で判定材料になるということが、大きく影響していると考えています。
例えば評定平均が4のP中学があったとします。一方、隣のQ中学の評定平均は3.2です。同じ評定(例えば4)の、P中学出身の生徒とQ中学出身の生徒2人が同じ高校を受験したとき、どんなことが起こるでしょうか。
もし、この2人の学力がほぼ同等であると高校の先生が判断できたならば、二つの中学の評定は正当なものと考えられます。何らかの事情でP中学に勉強が得意な生徒が集まってしまったのでしょう。
しかし、評定平均の高いP中学出身の生徒の学力がQ中学の生徒よりも低いと高校の先生が判断したら。
それはつまり、合否の材料として二人の「4」を同じように扱うのは不平等ということになります。「P中学は評価が甘い」「合格のためにわざと高めにつける学校だ」と思われる、ということです。
このようなことが起きないように、評価に正当性を持たせるために、入試制度を維持するために「評定平均は2.9~3.2程度におさめる」と指示を出す学校が出てきてしまうのです。
繰り返しになりますが、「評定平均」や「各評定の割合」を事前に定めるのはNGですが、自分たちの評価に偏りがないかチェックするために「評定平均」や「各評定の割合」を利用するのはOKということ。
「絶対評価をうたいながら、相対評価でつけていたのなら、入試の信頼性・妥当性の根幹が崩れる」といった懸念の声も上がる。(上記朝日新聞の記事より)
ここまで読んでいただければ、この「専門家」のコメントもピントがずれていることがお分かりいただけると思います。むしろ、入試の信頼性・妥当性を確保するためには、正規分布・平均・中央値等の確認(=相対評価的な考え方)も必要なのです。
この「専門家」が現場で成績を出していた人なら、こんなコメントは出せないはずです。
4 先生たちは、評価に迷っている
ということで、私たち教員は「正規分布にならない正当な理由」を説明できるならば、堂々と「評定平均4だけど問題ありません!」と言えるし、そのような評価・評定を出すことも可能です。
ところが、全国学力状況調査で平均的な点数を取るような、ある程度児童生徒数が多い一般的な学校なら、正規分布になるはずだし、正規分布になるようなテストを作るのが教員の目標になるのです。
筆者は日々迷いながら評価をつけます。定期テストのように100点満点でないもの、図工(美術)や音楽、体育、レポート課題などのパフォーマンス課題ならなおさらです。
5 考えられる解決策
絶対評価という方法をとりつつ、冒頭の記事のような問題が起きないようにするには、どうしたらよいか。思いつく解決策は、
・高校入試で評定を利用しない。
・テストは「県(市)内共通」とし、平等性を保つ。
・その上で、事前にカットライン(例 4と5の境界)を示し、後から修正しない。
といったところでしょうか。実現は難しく、この解決策では別の問題が生じたり多額の費用が発生したりしそうです。
因みにカットライン(例 80点以上でA)を示すのは、本来のやり方ですし、やらなければいけないことです。部分的にはもちろん提示します。しかし、後から修正が入る可能性がある以上、詳細を伝えることはできません。
様々な問題が起こり、これでは相対評価じゃないか、と言われるかもしれませんが、入試で判断材料にされている時点で、現在の評価方法が「まだましな方法」あるいは「セカンドベスト」だと筆者は考えています。